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土曜日



モトコはずっと考えていた。この子に名前をつけてあげなければならない。誰もがうらやましがるような、素敵な名前を。
しかしモトコは、さほど創造性にたけた女性ではなかった。

彼女は多くの名前を列挙するつもりで、一枚の紙の左上に小さく、思いつくままにその子のための名前を書き始めた。

・ワン太郎

・ワン吉

・ワン之助

三つ目の名前を記して以来、モトコはずっと考え込んでいた。
----モトコはさほど創造性にたけた女性では、なかった。


その犬がモトコの家の庭へ迷い込んできたとき、家には彼女一人だった。モトコが高校から帰ってきても大抵は家には鍵がかかっている。母一人、子一人の家庭では、母が夜遅くまで働くことはよくある話で、だからよくあるかぎっ子のモトコは、いつも寂しい思いをしていた。
その日もモトコは高校から帰ってくると、玄関の鍵を開けた。家に入り、電気をつける。冷蔵庫を開けて夕食の存在の確認。筑前煮はモトコの大好物だ。それから二階に上がり、自分の部屋へ入る。
相変わらず殺風景な部屋だね。
モトコは電気をつけながら、そう思う。
大きなベット、大きな机。小さなたんす。たんすの一番下の引き出しは、コンセントに刺さっているプラグを全部抜かなければ開けることはできない。ごみ箱。くまのぬいぐるみ。ヒーター。縦に長い空間。白い壁。壁には長方形型に四つの小孔が目立つ。以前ポスターを貼ってみたようだが、今ではもうそれが何のポスターであったのかでさえ思い出せない。小さな本棚。この棚は最近触ってもいない。読み終わった本の物置である。モトコが幼いころ、母がモトコに買い与えたグリム童話全集も、今や背表紙だけが黄ばんでゆく存在だ。 そして最後に目の行く所が大きな窓、寸足らずのカーテン。母の買ってきたカーテンは窓より丈が短く、正直なところその布の役割としては不足があるが、母があまりにも申し訳なさそうな顔をするため、
「いいよいいよ、逆に長すぎたら邪魔になるだけだし」
などと言ってみたりして、結局この短いカーテンのままである。
モトコは窓に近づき、さっ、とカーテンを開けた。
ほぼ真下に小さな庭が見える。小さな庭、といっても布団を二枚干すことによって一杯になってしまう庭とも言えないような狭いスペースなのだが、この場所があるのとないのでは、家の雰囲気だとか自身の心だとかに大きな違いが生じていたのではないのかと、モトコはいつも思うのだった。

そんな小さな安らぎの中に、モトコはひとつの摂動を見つけた。瞬時にモトコは、それが一匹の犬であることがわかった。庭の奥は隣の家の壁になっていて、そこには動物が通られるほどの隙間があることを彼女は知っていたが、しかし実際に迷い込んできた動物を見るのは初めてのことであった。モトコはどうしてもその犬を触りたくなった。なでたり、わきの下に手を入れて持ち上げたくなった。
モトコは庭に出た。逃げられてはいけないと思い、急いで犬の元に向かったが、その犬はどうやら逃げる意思を持ってはいないらしく、二階から見たときと同じ場所にいた。モトコが近づいても、じっと座っているだけだった。
モトコは心配になった。病気だろうか。触ることさえためらわれるほどに、その犬は弱っていた。鳴きもしなければ、動きもしない。呼吸により横腹が規則的に膨れるのみだった。
モトコの愛情は同情に変わり、そして再び愛情に変わった。彼女は自分の部屋にその犬を連れて行き、そして食べ物を探した。筑前煮を温めている時間が、ひどくもどかしかった。

夜遅く、モトコの母が帰宅すると、モトコはその子を抱えて階段を下りた。意外と重たかった。
「飼ってもいい?」
モトコがそう頼むと、彼女の母は右の目をさすりながら、微笑んでうなずいた。
「そうしなさい」
母はゆっくりと答えた。
この「そうしなさい」という言葉は一見寛大であるが、実のところ「私は無関係ですよ」といった突き放した表現である。「その犬の全責任はあなたが持ちなさい。あなたがちゃんと面倒を見ることができるなら、そうしなさい」の略であり、許可であると同時に管理のすべてを任されたことになる。モトコの母は、そういった「自由」、そして「責任」を惜しみなく与える人だった。それでもモトコにはその犬と離れる理由も必要も見当たらないので、おもいきり喜んだ。その瞬間から、その犬は彼女たちの家族になったわけだ。



・イヌ太郎

モトコは紙を丸めた。

彼女はどうしても、今日中に名前を付けてあげたかった。その犬をかわいがるために、どうしても名前が必要な気がした。だから早く名前を付けて、早くかわいがってあげたかった。
そして、モトコは更に考え込んでしまった。

その犬は、静かだった。
少しの声も発することは無かった。モトコの用意した発泡スチロールの箱の中に丸まって、カサリとも物音を立てなかった。
モトコの家は大通りから遠く離れていて、夜中になると少しの騒音もない。気味の悪いほど静かな部屋の中で、自分自身だけが空間における騒音である状況に、モトコは落ち着きを感じなかった。そして存在と騒音が共存しない不思議な生き物に対して、彼女は、過去でも未来でもない、今という空間に対して畏怖を覚えていた。
「食欲はあるみたいだから、すぐ元気になるわよ」
モトコの母はそう言うが、それにしたってその犬はあまりにも静かで、モトコはとにかく心配だった。うまく名付けることができない原因の大きなところに、その犬の容態に対して気が気でなく、集中できない心情が占めているのであろう。名付けたいのに、それどころではないのだ。

モトコは、発泡スチロールの箱の前にしゃがんだ。
中を覗く。するとその犬も、モトコに視線を合わせてきた。どうやらモトコの視線に反応して、何かしらの意思表示をしているようだ。だが、その犬の視線から伝わる意思は弱々しい。身動きひとつせず、ただ、モトコを見ていた。漠然と助けを求めていた。

モトコはその犬の頭を軽くなでる。手の圧力に合わせて、犬はまぶたを下げる。
「どうしよう」モトコはただ、不安だった。
「おーい、大丈夫か?」頭をさする。反応はモトコの力の向きにしか見られない。
モトコは困った。どうしようもなかった。その犬に元気になってもらわなければ、モトコはその子に何もしてやることができない。 だからモトコは、早く元気になるように、心の中で祈った。

「ゲンキ・・・」
ゲンキ、この子の名前は「ゲンキ」にしよう、モトコは思いついた。早く元気になってほしいから、名前は「ゲンキ」にしよう、そう考えた。

「ゲンキー、元気?」
・・・実際に呼んでみて、しかしモトコは不自然なものを感じた。彼女は、やはり別の名前にしようかと思った。

でも、名前を変えてしまうと、「ゲンキ」は元気にならないような気がした。





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