ウチの研究室にはマンガ置き場がある。
実験室内に使われていない机がひとつあるのだが、その引き出しに「びっしり」とマンガが詰まっている。この机がまるまる「マンガ置き場」なのだ。
中身のマンガ本は研究室のみんなが各自持ち寄って引き出しの中に入れておき、そして読みたい人は勝手にそこから取っていって、実験の間に読んだり、家に持ち帰ったりしている。システムとしては完全なコミュニティーだ。そんな感じで、引き出しの中は北斗の拳や片山まさゆきなどが常に「ぎっしり」なのだ。
マンガ本のドナーというのは、最終的に限られた一部の人間に託されることになる。家に多くの蔵書を抱えるには居住が実家であることが前提となり、また家がそこそこ近くなければ運搬における労力とその成果における格差に、労働に対する不信感が頭をもたげてくるものだ。よって「実家が近い者」にマンガの補充は託される。
そういったわけで回転の遅いマンガの入庫のために、待ち時間の多い実験をしている者は、何周も何周も北斗の拳を読み返すことになる。ホントに何周も何周も読んでいる。もうそろそろ一言一句間違えずにそらんじることができるのではなかろうか。
さてマンガにしろ小説にしろ、本を読む動機というものは3つに分けられる。
ひとつは「楽しむために読む」。これが全体の大半を占めると思う。99.99%の人は「楽しむために読」んでいる。刹那の快楽のために本を読むわけです。
ふたつ目として、「書くために読む」というのがある。文章力をつける目的で本を読むわけだ。語彙を増やしたり、いい表現を盗んだりするために、文字をなぞって読むわけだな。たとえばさっき使った
「本を読む動機というものは3つに分けられる」
というように始めに「何個ある」と個数を提示する手法はケッコウ格好良く見えるので文章を書くときにチョウホウするのだが、こういったテクニックも「書くために読」まないとなかなか身につかない。文庫本を蛍光ペン片手に読んでいる人がいたら、多分「書くために読」んでいる人だろう。
そして本を読む動機のみっつ目は、「想うために読む」である。本を読んで、その後で本に書かれてある世界を自分の中で広げて、自分の世界の一部にする。親や先生が「本を読め!」と子供に説教することは多いが、彼らの期待するところはこの「想うために読む」が目的とされるのだろう。子供に「世界を広げて」ほしいのだ。
北斗の拳を何周も何周も読み返す彼は上記みっつのうちどこに属されるだろうかと考えたとき、やはり99.99%のうちの一人なのだと思われます。「書くために読む」には自身の意志が必要であり、何度も読んで丸暗記することによって「想う」ことは放棄していることになるでしょう。何回も「楽しむ」ために、何回も読んでいるのです。
ぼくが本を読むときに大切だと思うのは、みっつ目の「想うために読む」だと思うんですよね。本を読むことで、自分の世界が広がる、そんな読み方がいちばん理想だと思うんです。そのためは読んだあとに自分で考えなくてはいけなくて、だから丸暗記することでは「想う」ことができないんです。
たとえば五木寛之さんは、一度読んだ本は捨てるらしい。
森博嗣さんも、最後まで読んで一箇所も蛍光ペンでマーキングするところのない本は捨ててしまうという。
つまり一度だけ読んで、あとは自分の頭の中で熟成させてゆく、それが「想うために読む」ということなのだ。
別に何回も読むことが間違いと言っているのではない。ただ、本を読んだらあとはそれをよく噛んで、自分の唾液と混ぜ合わせて、それで本の内容というのは栄養として吸収されてゆくものなのだろう。暗記するほど読んだところで、自分の唾液と混ぜ合わせていなければ栄養にはならないのだ。
話はちょっとわき道にそれるかもしれないが、ぼくはあまり歌謡曲を「正確には」覚えていない。曲調、音程、もしくは歌詞でさえ、歌い易いようにテキトーに換えて口ずさんでいる。CDもあまり買わないので、テレビで二三回聴いたら、あいまいなままでも口ずさんで、時にまったく別の楽曲に仕上がることもある。マッキーの『hungry spider』を「フロオケ」するときも、
「ヌハハハハ」
とか
「イッヒッヒ」
とか、オリジナルにはないアイノテが間に入ります。感情込めすぎ。
マンガを読むにしろ、歌を歌うにしろ、大事なのは
「自分のものにする」
ということなのだと思います。丸暗記してその知識を人に語ったり、歌手の人のクセまでモノマネしてカラオケを上手に歌うことでは、自身を決して成長させないのだと思います。
そしていろいろなものを「自分のものにする」ことで、いつかクリエイティブな作業に取り掛かるときに非常に役に立つのでしょう。役に立たせられるかどうかはまた別の能力ですけどねぇ。
ま、ぼくみたいに「つまらない読み方」しかできないのもどうかと思いますけどねー。
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