日記帳。



4月


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2oo4.o4.o3____かっこわるい ふられかた

桜の風が夕暮れを乾かす今日この頃、皆様ご機嫌いかがでしょうか望月ですこんばんワ。


どうやら今シーズンもプロ野球が始まったらしいよ。ほほう。うほほい。
第一戦で巨人は阪神と戦うようで、いわゆる「因縁の戦い」という一番盛り上がる組み合わせで140試合の口火が切られる。ぼくは野球がけっこう好きなので、これからの試合はちょっとした楽しみである。

今日戦った巨人、そして阪神は、どちらも今年からの「新監督」が指揮を執る。
堀内監督と、




放送事故。





そう、岡田監督。おかだあきのぶ。45歳。
彼らの采配にも注目が集まっている。

その試合のテレビ中継で、解説者として原巨人監督と星野阪神監督の二人ともが呼ばれていた。

この二人の前監督は、もともと顔がりりしいのもあるが、どちらもカッコイイ。とくに星野さんは阪神を優勝させて、そして辞めていったので、辞め方までカッコイイ。一方原さんは、事実上球団から解雇された形であるので、辞め方はカッコワルイ。これは一般だろう。

でも考え方次第では、星野監督の辞め方のほうがカッコワルイということも出来る。いわゆる「勝ち逃げ」というやつである。
監督というのは、もう負けちゃって負けちゃって、周りから「やめろ」「やめろ」の大合唱に後ろ足で砂かけての"勇退"が通常なのだが、そんな結末を危惧しての引退だとしたら星野さんはある意味ヒキョウ。原さんのほうが任務をまっとうした感がある。

で、まぁそんなこんなをグダリグダリ書いてみても、さてどっちがカッコイイのかと考えてみたとき、結局二人ともカッコイイとしか言いようがない。

鶏口となるとも牛後となるなかれ

とか言うけど、つまりるところ牛の口となった彼らに対して否定すべきものは何もないわけである。100人が100人、よだれを垂れ流してうらやましがる二人の立場は、彼らの人生が間違っていなかったことの証明であり、誰の否定をも寄せ付けないだろう。



・・・そんな二人を指差して、カッコイイだのワルイだの言ってるぼくが一番カッコワルイのは確かだと思う。ポテチン。



2oo4.o4.o7____青空 じょきじょき ハサミで切って

たとえば小学校の図工の授業で、先生がこんなことを言ったりします。

「絵の具はそのままの色で使わないで、混ぜて使ってください。」

子供のころのぼくは「そんなもんか」と思って、深く考えずに色々な色をぐちゃぐちゃ混ぜてはキモチワルイ色で空を描いたりしていました。絶対にチューブそのままの青色で塗ったほうがキレイ、それを確かに感じつつも、「色を混ぜろ」と言われているためにぼくはいつも「これが正しいんだ」と思い込むことのできる優等生でした。
「そのままの色で使わない」
その言葉の真意を、当時のぼくは全く理解していなかったのです。




夕焼けは綺麗です。
朝焼けも綺麗です。

夕焼けは昼と夜の中間色です。
朝焼けは夜と昼の中間色です。
乳白色と紺青のグラデーションの、ある一瞬、あらわれた色に美しさを感じるのでしょう。

もしも地球に空気がなかったら、夕焼けも、朝焼けも、存在しません。
突然夜が来て、そして突然朝が来ます。
そんな地球は美しいでしょうか。




一つの色に別の色を加えてゆくとき、一瞬、美しい色に出会うことがあります。芸術家の方は、そんな一瞬の夕焼けを作るために、非常な苦労をするのでしょう。偶然を人為的に作るほど難しいことはないのです。
地球が空気に満たされていることに気付かないと、ともすれば「夕焼け」という色が、チューブから出てきていると考えてしまう人もいるかも知れません。

絵の具は有理数で、夕焼けは無理数。
有理数で無理数を表現することは出来ません。
だから絵の具を混ぜて、近似した値を作ります。小数点何桁まで取るのかは、本人の自由です。それが「写生」という作業なのです。

世の中には絵の具では表すことの出来ない色のほうが多いことを、図工の授業で教えるべきなのだと思います。
今目の前にある空の色がチューブの中に存在しないこと、そしてその空の色は、絵の具では決して作ることができないことを教えるべきなのだと思います。




そういった教育をされていれば、ぼくももう少し芸術に造詣が深くなっていたかもしれないな、などと夕焼けを見て思ったりします。もしかすると、自分で気が付かなければ意味がないのかもしれませんが。




空を見る、それも芸術。



追記:(2oo4.o5.o5)
 あるプロの絵描きさんは、空の青を出すのに、170色もの絵の具を混ぜて作るらしいです。そんなに絵の具の種類があることも驚きですねー。

2oo4.o4.1o____自分のためだけに シーツを洗うよ

ぼくの下宿先には小さなベランダがあって、そこには小さな洗濯機が置いてあります。




せんたっき。





この洗濯機の「上」は、ぼくの特等席です。
ザブトンをひいて、アグラをかいて、ヒナタボッコしながら本を読みます。

ベランダは、外であって外でないところがいいのでしょう。
洗濯機の上は、地べたであって地べたでないところがいいのでしょう。
「動物の本能」と「人間の尊厳」の境目に、気持ちのよい何かがあるのかもしれません。

読書の集中力が切れるとき、ちょうど洗濯が一回終わります。
そこで洗濯機から降りて、洗濯物を干します。
ここまでが『1洗濯時間』。
週末、ぼくに許される読書のための時間は「2洗濯時間」くらいでしょうか。


日本では全国どこでも太陽暦が使われています。
太陽の周りを地球が一周する時間を「1年」。
月が満ち、そして欠けるまでの時間を「1月」。
日が昇り、沈み、そしてまた昇るまでを「1日」。

「洗濯時間」なる単位は、これとはまったく異なる時間軸からできています。
だいたい「1時間」くらい、「1/24日」くらいなのですが、でも「1洗濯時間」をいくら重ねても、「1日」にはならないのです。
別次元の時の流れが、洗濯機の上には流れています。


・・・みたいな感覚に包まれる春、でも時間は確実に流れているのでフシギ。




ちなみに、ぼくが昼ごはんを食べるのにかかる時間は、約「1テレホンショッキング」です。



2oo4.o4.11____君を信じてる 信じてる 君を信じてる

ぼくは小学生のとき、イジメられていたことがあります。
正確には、「イジメられかけた」と言うべきでしょうか。

まったく理由は分かりません。今でも分からないくらいなのですから当時のぼくに「分かれ」というのはムチャな話ではあるのですが、とにかく「ぼくにも分からない理由」によってぼくはイジメの対象としてロックオンされました。イジメっ子の立場からすれば、それ相応の不可侵な大義名分があったのでしょう。

突然、口に両親指を突っ込まれ、横に力いっぱい広げられたり、トイレに通学帽を投げ込まれたりしました。

さすがに理不尽を感じた当時のぼくは、さてどうしたものかと解決策に悩みました。
その結果、ぼくはとりあえずニコニコして、
「ごめんね」
を連呼することにしました。
殴られても「ごめんね」。
蹴られても「ごめんね」。

そのうち、ぼくの味方についてくれる人が増えてきました。
そして「望月くんを助ける会」が発足し、ぼくをイジメていた二人は、クラスの中で一気に孤立しました。みんなから無視されたその二人は登校拒否になってしまい、次に会ったのは成人式のときでした。




今、常に宗教戦争の危機が付きまとう国際社会において、日本の取るべき態度というのはこの「ごめんね」的外交なのだと思います。
勝とうと思わないことです。いつも、いつも、いつもいつもいつもいつも「負けちゃった」を誇ることです。

「正義」という概念は雑草の根っこであって、その土地にしっかりと根付いているものです。
刈り取られても、刈り取られても、新しく芽が出ます。

ただ、正義という名の雑草は、自分で考えることが出来ます。
自分の存在価値に疑問を持つ能力があります。
隣の芝生の色を識別する能力があります。

日本から飛んできた三本の雑草が、遠くイラクの地に根を下ろしました。
摘んでみて、その雑草の青さを知りました。
イラクの地に育つ雑草は、日本の色よりもアメリカの色に近かったのです。

たとえばそれが理不尽でも、周りの雑草が同じ色をしていたなら自身の色に気付かないもの。
だから他の色の雑草が近くに植わっていることはとても重要で、そのためには、殴られても、蹴られても、決して殴り返してはいけないのです。

いつもシタテに出て、ニコニコ、ニコニコ。
「ごめんね」。
「ごめんなさい」。

遠く離れた国の雑草が自身の色を知ったとき、はじめて何かが動き出すのだと思います。

日本の自衛隊がすべての武器を放棄したとき、「青い雑草を守る会」は、世界の大きなウネリとなるでしょう。



2oo4.o4.16____君を信じてる 信じてる 君を信じさせて

17時。
公園では小学生が野球をやっています。10人くらいでしょうか、ケッコウな人数がワイワイ騒いでいました。
さて、少し足を止めて見ていますと、なにやら「パカーン」と打ってはランニングホームラン、「パカーン」と打ってはランニングホームランの連続で、ちっともアウトになる気配がない。アウトどころか、ランナーが溜まる気配さえなく、一人打ってはホームインばっかり。
守りが5人しかいない一方で、ダイヤモンドが小さすぎるらしく、おかげで壊れたゼンマイねずみのようにクルクルとダイヤモンドを一周する小学生。いつチェンジすることやら。

こう考えると、正式の「野球のルール」はかなりよく出来ているんだなと思います。 たとえば塁間の距離というのは当然一定の長さに決められているわけですよね。各ベース間の距離は、




放送事故。





うん、90フィート(27.43m)。この距離が実に絶妙で、内野ゴロなら確実にアウトになるが、ちょっとミスがあるとアウトにならない可能性が出てくる、ハラハラ感あふれる微妙な長さになっています。あとは守備の人数、ボールの飛距離、投げる速さや走る速さとグラウンドの広さのバランスなど、すべてのタイミングにおいて「ギリギリ!」の存在する、まさに「よく出来ている」としか言いようのないスポーツなのです。

野球のルールが今ある形に収まるまでには長い年月が要されたと思う。試行錯誤が繰り返され、磨き上げられた黄金率。野球のルールに見られるソレにはかなわないが、もちろんサッカーのゴールの広さ、ラグビーのボールの歪曲具合など、他にも注目すべき黄金率はたくさんあることでしょう。




今、無秩序な戦乱の世の中において、求められるのはこの「絶妙なルール」なのだと思います。

なにが「善」でなにが「悪」なのかは、もうみんな分かっているのです。そういったぼんやりとしたところをぼんやりと主張してもしょうがないのであって、重要なのは「ルール」として戦う目的をはっきりさせることだと思うんですよ。
「俺がルールブックだ!」
たぶんニデガワノブアキになれるのは日本くらいしかいないと思うんです。

ま、分かりきっていることなのでウダウダ書くことは避けますが、
「人を殺さない」
このくらいのルールは日本も提案してよいと思います。

言うだけならタダなのですから。ポテチン。



2oo4.o4.18____ぐるぐる回って 回って

ぼくは子供のころ、ガチャガチャが好きでした。

「ガチャガチャ」というのはよくおもちゃ屋の軒に置いてある簡易的な自動販売機で、100円とか入れて「ガチャガチャ」っとハンドルを回すとおもちゃが出てくる器械です。最近はガチャポンTMと呼ぶ人も多いようですが、昔はみんな「ガチャガチャ」と言っていて、少なくともウチの田舎ではみんなそう呼んでいました。

今でこそガチャガチャ業界はすごいことになっていますが、




すごいこと。





ぼくの小学生当時はもっとチャッチくて、100円入れて回してもカプセルが出てこなかったことなどザラで、ひどいときは中でカプセルが「パキーン」と砕け散ったりしました。
それでも「100円でおもちゃが買える」という魅力に心ホダされて、しょっちゅう買っていました。


ガチャガチャというのは側面から内部を覗くことができるようになっておりまして、中のカプセルが少なくなってくると、次に何が出てくるのかが直接分かるようになります。ガチャガチャは半端じゃないくらいハズレが入っていて、当時は最後のほうにならないと当たりが出てこないようなエゲツナイ作りになっていました。だので「横から覗く」という行為は非常に重要になってくるのですね。


小学校の近くの文房具屋にガチャガチャが数台置いてあって、ぼくはよくそこで購入しました。

ある時いつものように買いに行くと、中身が五つ位しか入っていないガチャガチャがありました。その当時、「笑い袋」はちょっとしたブームになっていたのです。
ところが横から覗いてみると、次はケッタイな「消えない消しゴム」が出てくることがバレバレなのです。笑い袋の欲しいぼくは「誰か先に買わないかなー」と思って周りをうろうろしていたのですが、そこに小学6年生の「先輩」が通りかかりました。
彼は通称「八百屋の正ちゃん」と言い、ちょっと言動の不良っぽい人でした。





先輩:
「どうした、望月」

望月:
「あ、先輩。それがですね、コレ欲しいんですけど、ハズレることが火を見るより明らかなんですよー」

先輩:
「どれ、見せてみろ」




ガチャガチャ。

ガチャガチャに近寄る先輩(右奥)と
それを見つめるぼく(左手前・ナス)。



先輩:
「おー、これか。まかせろ」

望月:
「? 先輩、何するんですか?」






ガチャガチャ。










ガチャガチャ。










ガチャガチャ。










ガチャガチャ。





先輩:
「混ざったぜ」

望月:
「・・・ありがとうございます」




ぼくは「優しさ」というのはもっと保守的な概念だと思っていたのですが、「バイオレンスな優しさ」の存在を知ることは、当時のぼくに相当な衝撃を与えました。
いい先輩でした。そんな思い出。



2oo4.o4.25____桜吹雪のサライの空は

ぽかぽか陽気であくびをしていたら虫が口の中に飛び込んでくるような季節の「はるるん」「はるるん」望月ですこんばんワ。



本日、ワタシの地元であるところの静岡県○○町では住民投票がおこなわれます。一万人強の我が町の住民の成人全員に投票権があります。

投票のテーマは
「静岡市との合併の賛否」
ついに市町村合併の時代の触手が我が町までやってきたのだ。ひえー。

静岡市っていうのは、つい最近「清水市&静岡市」の合併によって『日本一大きな市』となったもので、政令指定都市として最有力な市であるのですね。清水市はその当時かなり「ひなびて」いたので、清水が静岡に吸収された、といったところでしょうか。

しかしそれでも足りないとでも言うかのように、勢力を拡大し続ける静岡市。「ちびまる子ちゃん」で有名なあの清水市がなくなった今、私の町まで取り込もうとする「かおなし」のような市の肥大化は、さながら戦国時代の様相である。


住民投票がおこなわれるわけですが、正確にはその結果で即「合併」となるわけではない。今回は「町議会内に合併検討会を設立するかどうか」の投票である。でも投票の結果如何(いかん)では来年あたりワタクシ「静岡市民」になってしまうかもしれません。いやーん。


ぼくは今静岡にいないので投票できませんが、遠く名古屋の地から、ぼくの意見だけでも叫ばさせてもらおう。




「オレの故郷をなくすんじゃねぇ、ばか。」



2oo4.o4.28____くり返す悲しみは 島渡る波のよう

マイクロフォン

かかとで踏んだら

こーなごな





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