きょう、金曜ロードショーで「蛍の墓」を見た。
・・・もう小学生のころから見飽きるほど見てる。「またこれやるの!?もうウンザリ娘!」とかつぶやきながら、でもヘタにニュースステーションなんか見て、いらいらを蓄積させる積極も無意味なので、チャンネルを蛍に合わせてみる。たまーにセツコの声が聞きたくなるのも、ま、確かだ。
・・・はっきり言って、ちょっとショックだった。
ぼくはこの映画、もうちょっと道徳的な、皮肉な意味で「美しい」お話だと思っていた。しかしふたを開ければ、主人公のお兄ちゃん、空襲で逃げ惑う人々の家に入って食べ物とか着物とか盗んでるし!
小学生のころは「そんなもんか」とか思っていたのだろうが、今、戦争というものが身近になっている時代に見てみると、「う、ここまでコクメイに描かれていたのか・・・。」と、あまりの「汚さ」にびっくりする。戦争の醜さを、「正義」に忠実に生きる青年の美しい死を描くことによって表現している映画なのだと思っていたのだが、実のところどうやらあまり「正義」には触れていないようだな。青年の、「正しい」のみが題材となっていて、直接的に戦争の正誤には言及していないのだ。戦争は背景であって、それ以上のものではない。ずっと教育素材だと思っていたぼくは、結構普通の映画だったので今さらびっくらこきました。
ぼくの持論のひとつに、
「『正しい』とは間違っている可能性を秘めた『正義』である」
というものがある。『正義』に捕らわれすぎて『正しい』の意味を見失っているアメリカを見ていて考えたことなのですが、結局『正義』は『正しい』の集合ではなく、『正しい』と独立して、神格化した宗教を指すのだということです。で、そういった神に疑問を持つと、平走して『正しい』が蛇行するのじゃな。
でもこういった『正しい』にのみ注目した映画を見ると、『正しい』こそが絶対的な存在なのかなーなんて思っちゃう。で、別次元で強い「磁場」を持つ『正しい』が、他の方位磁針を整えて『正義』を形作るんじゃないかなー。
結局はニワトリタマゴで『正義』が作られてきたのだろう。だからそれぞれを定義付けるなんて馬鹿らしい。でもその中で、
「間違っている可能性を秘めた『正義』」
という意味での『正しい』を描くことのできる日本の映画界は、やっぱりいいなと思うのですわ。外国の映画は『正義』ばっかりでなぁ・・・。
ごめん、疲れてます。
追記:(2oo4.o8.o1)
「蛍の墓」ではなくて、「火垂るの墓」でした。お恥ずかしい・・・。
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