最近、なにやら
『ムダ知識』
がブームだそうで。
ある深夜番組に、ムダ知識を視聴者から募集して競わせる番組がある。深夜にもかかわらず「視聴率20%強」という脅威の数字は、すべての人間の持つ知的好奇心の現れであろうか。「老いとは欲望の絶えることである」という持論をもつぼくとしては、純粋に「世の中まだまだ捨てたものではないな」と感じ入る次第でございます。
最近は視聴者「投稿」型のテレビ番組が増えてきた。なんだかラジオの形式に非常に近くなっている気がしてならない。『はがき職人』というやつだ。
そりゃ全国からネタを集めれば面白くもなるだろう。でもラジオのように、もしそこで安定化するようなことがあったら・・・サミしいなー、などと思うことは贅沢だろうか。ラジオでできることは、テレビでやってほしくない。
視聴者投稿型番組の先駆者に
『伊○家の食卓』
というのがある。これと、先の某深夜番組は、形式が非常に似ている。視聴者から知識を募って、それを評価する、それが軸となった構成だ。
ところが募る内容というのが正反対であるわけだな。前者が生活に有益な知識を集めているのに対し、後者ではホントにムダなものばかりを集めている。
『消しゴムを液体窒素につけると爆発する!』
『鉛筆一本で竹を描く方法!』
びっくりするほど生活の役に立たない。
しかしそういった情報を欲する人が多いのも事実である。
たとえば「関根勉」というタレントがいる。
彼は頻繁に、格闘技関連のマニアックなネタを言う。
たとえば「藤井隆」というタレントがいる。
彼は頻繁に、アイドル関連のマニアックなネタを言う。
彼らのマニアックぶりに、我々はどこか「馬鹿だ」と笑いながら、しかし軽く尊敬の念さえ生ずる。我々は一芸に秀でた者に対してめっぽう弱いところがあるのかもしれない。そして「一芸に秀でた者」の証明になるものがいわゆる『ムダ知識』なのだ。
人間は、なんにせよ「一芸に秀でた者」に憧憬を抱く。だから彼らの放つ『ムダ知識』を吸収して、彼らに近付こうとする。そのとき人は「一芸に秀でた者」になった錯覚さえ持つだろう。そのジャンルに詳しい人間と知識を共有しているのだから。立花隆の小難しい本が売れている背景にも、そういった
「いろいろなジャンルで一芸に秀でたい!」
という どこか矛盾しているようだが、 尊敬の対象に近付きたいという欲望が働いているのだろう。
さて、そこで問題となるのは、「くりぃむしちゅ〜・上田晋也」の存在である。
彼は最近、「ウンチク芸人」として売り出している。ことあるごとに雑学を披露し、すげぇすげぇと言われては知名度が急上昇のくりぃむしちゅ〜。いつの間にやら人気者である。
彼の知識は、たとえば
「たまねぎは世界でいちばん消費量の多い野菜なんだぜ」
などという、まさに「雑学」であり、「伊○家」寄りではない。
かといってまったくのムダ知識かと言えばそうでもなく、「ト○ビア」寄りでもない。つまりはその知識自体が面白味のあるネタになっているわけではなく、「たくさん中途半端に役に立つことを知っている」という事実のみがネタになっているわけだ。
さらに彼が「一芸に秀でているのか」というと、たぶんそうではない。ただ「薄く・広く」知識があるだけで、それぞれの物事に対する深層まで知っているとは思われない。表層を、知ったかぶりして語っているに過ぎない。確かに口にすることは事実かもしれないが、それ以上の知識は持たないわけである。
「いろいろなジャンルで一芸に秀でたい!」
人々が「いろいろなジャンルで一芸に秀で」ることがホントにできると考えていたり、あるいはそれが擬似と知っていてもその「一芸に秀でている感」で満足であったりしてるうちはいい。ところがもし上田の雑学に価値を感じなくなった人が増えたり、表層だけの知識に満足しない者が増えたとき、彼の人気は地に落ちる。これは昨今の立花隆の評価を見れば容易に想像がつくだろう。人に知的好奇心がある以上、これは想定しなければならないひとつの分流なのだ。
結局は、人は、何かを極めた者の放つ『ムダ知識』が聞きたいのだ。
水平に進むことにエネルギーは必要とされない。遥か上空へと持ち上げてくれる、そんなエネルギーこそを人は切望するのだ。
何かを極めてみるべきでしょう。そこに大いなる価値が生ずるのです。
何かを極めろ、上田!がんばれ、上田!おーっ!
・・・けっきょく何の話だ?
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