日記帳。



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2oo3.11.o7____月灯りの部屋 心の隅々まで痛くしよう

月があまりにもまぶしく輝くので、人さし指の先で「ちょいちょいっ」とめくって、「ぺりぺりっ」と剥がしてみたい衝動にかられるメルヘンバカ望月ですこんばんワ。


ウチの研究室に、たまに「花」が飾られることがあります。どういった経路で入手したのかは知りませんが、きっと誰かが貰ったりなにかしたのでしょう、それで扱いに困って研究室に持ってこられたのでしょう。誰が持ってきたのかも気に止めぬ日常の中、その花だけが、急に降って湧いたスポットライトなのです。

やはり花というのは、「癒す」力を持っているのでしょう。
もともと、子孫を残すために動物を惹き付けなければならなく、そのために植物は「花」をつけるわけなのだが、花を実際に見てしまえば、そういった「理屈」でさえ後付けに思えてならない。時に「花は植物における『生殖器』だ」だとか言われて、特にランの花などは、その形状から文学的にひどい扱いを受けることが往々にしてあるのだが、そう言った理屈は抜きにして、いや、そうであるからこそ、我々は「花」を「キレイ」と思うのである。人間が卑しい種であってもそうでなくても、「花」は「キレイ」なのだ。





そういったわけで、日々クロロホルムだとか、塩酸だとか、アセトニトリルだとかにまみれて人の心も濁ってゆく我が研究室に、そのかわいらしい花が、忘れていた『温かさ』を教えてくれます。心なしか、最近気候が暖かいです。







3日でその花、真っ黒になって枯れ落ちました。





ぼく、死ぬかも知れない。



2oo3.11.o9____ろくなもんじゃねぇ

あまり「不健康自慢」する人は好きじゃないんですけどね。

不健康な人は一様にグチっぽくなってしまうもので。

風邪が治らなくて体力がなくなってくると、精神も弱くなってしまって、さらにグチっぽくなってしまうものなのですよ。

ゴホゴホ。
だから少し、ぼくの不健康自慢を聞いてくだされ。




ぼくは小学生の時分から、尿検査でよく引っかかっていました。どうやら疲れてくると尿にタンパクが混じるようでして。
「無症候性蛋白尿」
とかいう「どないやねん」な病名を与えられては、入院したりもしました。

ケッキョク肝臓が良くないらしいのです。なにやら肝臓の位置が動くらしいんですね。そのときの外的刺激によってタンパクがドッパドッパ出てくるとかいう話なのですが。

『寝たり起きたりすると、内臓の位置が動きますね。』

とか言われても困るわけです。オレの体はスノーボールですか。


とにかくそーいうわけで、ぼくはタンパク尿のせいで「疲れやすい体」だそうです。

ふーん。

自覚なし。

我ながら、鈍くて助かっています。




あとぼくは、しょっちょうハラを下します。胃腸が弱いんですね。ピーです、ピー。
ホントにちょっとしたことなんですよ?前の日にちょっと食べ過ぎたり、ちょっと徹夜しただけでも、次の日は

トイレの

個室で

ゲリラライブ。

そのうえ辛いものを食べてたりすると、お尻の周りが
(放送事故。)


そういうわけで、太田胃散は常備薬でございます。




いやー、困ったものですぼくの体。
ま、もっと不健康な人もたくさんいるのでしょうから、このくらいでグチっていたらバチがあたりましょう。一応五体満足なんですから。




・・・えー、取りとめもなくウダウダ書いてしまいましたが、とにかくぼくが今日の日記で一番言いたかったことはこういうことです。




ぼくの









腸と









胃と









肝臓が














チョー イ カンゾウ!









あ、いや、ちょっと待(プツン。)



2oo3.11.16____みんな時代のせいだと 言い訳なんかするなよ

久々に、歌謡曲論でもホザいてみますか。






ここ数年、日本歌謡曲界はカバー曲ブームである。

「カバー曲」
というのは、かつてヒットした曲を若い人が聴いて、そこに彼が共感する何かを得たとき、その曲に自分の感情を付加させて、まったく新しい楽曲として発表するものである。


ぼくの友人に、邦楽にまったく無知な人がいる。
あの伝説のバンド「X Japan」を知らなかったくらいだから、日本で一番ウタを知らない人間の一人と言っていいだろう。


彼は「カバー曲」のことを「パクリ」と呼ぶ。

「あ、またこの人『パクってるよ』。」


さすがに彼も「カバー曲」という語彙とその概念については聞き知るところがあると思われるので、つまりはワザト言っているわけだな。「パクリ」、それがその楽曲に対して最も適した表現だと考えているのだろう。要するにカバーするという行為を悪行と感じているのだ。盗作扱いである。

・・・もしもぼくが10年ほど前の人間であったなら、
『「カバー曲」と「パクリ」を混同するな!』
と憤慨しただろう。でも最近じゃ、仕方ないだろうか。



最近の「カバー曲」には、感情がない。


この文章の書き出しに、ぼくの考える「カバー曲」の定義を書いた。

『----かつてヒットした曲を若い人が聴いて、そこに彼が共感する何かを得たとき、その曲に自分の感情を付加させて、まったく新しい楽曲として発表するものである。』

この一文を読んで鼻をつまみたくなる人もいるかもしれない。
『共感』
この言葉に「チョーキモい」と感じる者もいるだろう。もともとそんなもの理屈で考えることじゃないのだから、理屈で考えること自体が「チョーキモい」ことではあるのだ。


ところが現代の若者は、理屈で考えてすぎている。我々古い人間から見るとそちらのほうが「とても気分が悪い」。

感情がない。

一言で言えば、売名行為。

「カバー曲」のことを「パクリ」と呼んで何の問題のない現代は、『売れたい』が唯一目標の「カッコつけ」シンガーが跋扈する風潮の象徴である。

昔のウタを

「今時の流行り」に漬け置きして

カッコつける。

カッコつける。

カッコつける。

感情がない。




ぼくは「歌を歌う」ということは、「カッコ悪い」行為でないといけないと思うんですね。自分の内面をさらけ出すわけですから。外見なんか気にしていたら、歌うものも歌えません。

ところが最近の歌謡曲はどうでしょう。外見ばかり気にして、ちっとも自分を出しちゃいません。

「英語の歌をカバーすればカッコいいだろう。」

「『贈る言葉』を大声で歌えばおもしろいだろう。」

「この歌好きだから、CD出したいな。」


カラオケじゃねぇんだよ。


むかしに歌われた「カッコいい歌」というのは、ホントはそのウタがカッコ悪くて、歌う本人もカッコ悪いと知っていて、それでも強すぎる想いがあふれて、歌わずにはいれない、だから歌われて、そして当然有名になって、そこで最近の一部の勘違い野郎が
「有名だからカッコいい歌なんだろう。」
なんて言い出して。

そして若者はその『カッコいい歌』を「上手に」歌ってみる。
それを聴いて「お、なかなかいいじゃん」とか思うのだろう。どこがいいんじゃ。


上手に歌うんじゃない。
面白く歌うんじゃない。
カッコよく歌うんじゃない。

心から出たものを、そのまま口から出すのだ。

心で歌うのだ。

歌詞の中で、一番伝えたいところを、一番強調して歌う。まずそこから始めてみようよ。メッセージの中心はどこなのか、それを読み取ることから始めてみようよ。

内面から歌ってみようよ。

カッコ悪く歌ってみようよ。


そうすれば、「カバー曲」のことを「パクリ」と呼ぶ人もいなくなるのではないでしょうか。






日本を代表するシンガーソングライター、小椋桂は、かつてこんなことを言っていました。

「『最近の歌は何を言ってるのか分からない』って言う年配者がいますけどね。いや、分からないのは当然ですよ。何も言っていないのですから。」


・・・ぼくもそんな『最近の』人間にならないように、できるだけ主張を持った文章を書くように心掛けています。歌手の批判をするために、自分でも小説を書いています。文句ばかり言っても本人に実力がなければ、何の説得力もありませんからね。

・・・まだ小椋桂ほど言葉に重みがないかもしれませんけどね、ぼくの言葉に、もっと耳を傾けてくれる人がいれば、いいなぁ。



2oo3.11.19____ゲロッパ!

スキーの季節がやってきた、らしい。

スキーのカタログが研究室内に散らばりはじめた。友人のカレンダーの12月23日のところに「スキー」と書き込まれた。先輩や友人の会話の中に

「新しいスキー板」

「志賀高原」

「今度アルペン行こう」

などが混じりだすと、もう季節は「スキー」である。

季語:冬
季節:スキー


どうして?と思うくらい、研究室のみんなはスキーが好きなのだ。
シャレでは無い。



一方ぼくはあまりアウトドアに積極的な方ではありません。
例えば

「じゃあこの日にドコソコに滑りに行くよ。朝迎えに行くよ。」

などと全部誰かが決めてくれて、『じゃ、行くかな。』となるのがほとんどであって、意気込んで計画をたてたりはまずしない人なのです。出不祥なんですね。

だから「スキーの季節」がどこらへんなのかもよく知らないのですが、この研究室にいると自然と明瞭と知ることができます。どうやら、今です。



先日、先輩との会話で

先輩:
「今年はどこ行こうかな。広いところがいいから赤倉か志賀高原だな。でもあの板古いからそろそろ新しいスキー板が欲しいんだよな・・・そうだ、今からアルペン行こう。」

ということになって、スキー専門店『アルペン』に行くことになりました。



アルペンまで先輩の車で5分。

右へ、左へ。

たった5分にもかかわらず、車酔いするぼく。グロッキー イン ザ カー。



・・・ぼくは実はものすごく乗り物酔いしやすい人間なのです。新幹線でも酔います。酔えます。

なにかの統計によると、全人口の約5%の人は何をしても治らない程の悪性の車酔い体質らしく、ぼくはばっちりその5%なのです。
「何をしても治らない」とまで言われたらオイラも開き直るしか無いわけで。
でも最近じゃあ、胃袋が危険な状態に突入すると、いつでも『仮死状態』になれるというケッタイなスキルがついてしまいました。
寝るだけですが。



アルペンからの帰りに先輩はこう言ったよ。

「今度一緒に滑りに行こうよ。蔵王に。車で。」






ぼく、死ぬかも知れない。



2oo3.11.21____強盗よりも強引なやつ

冬の雨、独り凍えるワクラバが
やっぱり前略望月です。

ぼくは一人暮らしをしているのですが、そこにある日、大家さんがやってきて、
「カギを全部新しいのに取り替えます」
と言った。

何やら向いの部屋の人が帰ってきた時、ドアのカギが開いていたらしく、ケッキョク何も盗られてはいなかったのだが、恐くなって大家さんのところにその旨を伝えたことから今回の「カギ全とっかえ」が大々的に実現する運びとなったと言う。
ぼくはまず間違い無く向いの人がカギを掛け忘れただけだと思うのですが、ま、それと言って事象が抗う必要のない些事であれば、自身流れに逆らうつもりはなく、カギももう全ヘヤ分買ってしまったと言うので、何だかんだで付け替えてもらった。
「お手数ですが、防犯のために」
と頭を下げる大家さんに、
「めんどくせーからこのままでいいです。」
と言えるようであれば、ぼくの人生ももう少し快適になっていたでしょう。



今度のカギは、カギ穴が横向きになっている。ピッキングされにくいとうわさの、例のあれだ。
大家さんがねじ回し一本でカギを付け替えるのを見て、

「防犯的にどうなのかしら」

と思っていると、あれよあれよでカギ新調。おにゅー。

どうやら全部の部屋の中でぼくのとこのカギのつけ替えが最後だったようで、帰り際に大家さんはこう言ったよ。

「よし、これで全部の部屋がこれ一本で開くようになったぞ。」

マスターキーを見せる大家さん。




防犯的にどうなのかしら。





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