久々に、歌謡曲論でもホザいてみますか。
ここ数年、日本歌謡曲界はカバー曲ブームである。
「カバー曲」
というのは、かつてヒットした曲を若い人が聴いて、そこに彼が共感する何かを得たとき、その曲に自分の感情を付加させて、まったく新しい楽曲として発表するものである。
ぼくの友人に、邦楽にまったく無知な人がいる。
あの伝説のバンド「X Japan」を知らなかったくらいだから、日本で一番ウタを知らない人間の一人と言っていいだろう。
彼は「カバー曲」のことを「パクリ」と呼ぶ。
「あ、またこの人『パクってるよ』。」
さすがに彼も「カバー曲」という語彙とその概念については聞き知るところがあると思われるので、つまりはワザト言っているわけだな。「パクリ」、それがその楽曲に対して最も適した表現だと考えているのだろう。要するにカバーするという行為を悪行と感じているのだ。盗作扱いである。
・・・もしもぼくが10年ほど前の人間であったなら、
『「カバー曲」と「パクリ」を混同するな!』
と憤慨しただろう。でも最近じゃ、仕方ないだろうか。
最近の「カバー曲」には、感情がない。
この文章の書き出しに、ぼくの考える「カバー曲」の定義を書いた。
『----かつてヒットした曲を若い人が聴いて、そこに彼が共感する何かを得たとき、その曲に自分の感情を付加させて、まったく新しい楽曲として発表するものである。』
この一文を読んで鼻をつまみたくなる人もいるかもしれない。
『共感』
この言葉に「チョーキモい」と感じる者もいるだろう。もともとそんなもの理屈で考えることじゃないのだから、理屈で考えること自体が「チョーキモい」ことではあるのだ。
ところが現代の若者は、理屈で考えてすぎている。我々古い人間から見るとそちらのほうが「とても気分が悪い」。
感情がない。
一言で言えば、売名行為。
「カバー曲」のことを「パクリ」と呼んで何の問題のない現代は、『売れたい』が唯一目標の「カッコつけ」シンガーが跋扈する風潮の象徴である。
昔のウタを
「今時の流行り」に漬け置きして
カッコつける。
カッコつける。
カッコつける。
感情がない。
ぼくは「歌を歌う」ということは、「カッコ悪い」行為でないといけないと思うんですね。自分の内面をさらけ出すわけですから。外見なんか気にしていたら、歌うものも歌えません。
ところが最近の歌謡曲はどうでしょう。外見ばかり気にして、ちっとも自分を出しちゃいません。
「英語の歌をカバーすればカッコいいだろう。」
「『贈る言葉』を大声で歌えばおもしろいだろう。」
「この歌好きだから、CD出したいな。」
カラオケじゃねぇんだよ。
むかしに歌われた「カッコいい歌」というのは、ホントはそのウタがカッコ悪くて、歌う本人もカッコ悪いと知っていて、それでも強すぎる想いがあふれて、歌わずにはいれない、だから歌われて、そして当然有名になって、そこで最近の一部の勘違い野郎が
「有名だからカッコいい歌なんだろう。」
なんて言い出して。
そして若者はその『カッコいい歌』を「上手に」歌ってみる。
それを聴いて「お、なかなかいいじゃん」とか思うのだろう。どこがいいんじゃ。
上手に歌うんじゃない。
面白く歌うんじゃない。
カッコよく歌うんじゃない。
心から出たものを、そのまま口から出すのだ。
心で歌うのだ。
歌詞の中で、一番伝えたいところを、一番強調して歌う。まずそこから始めてみようよ。メッセージの中心はどこなのか、それを読み取ることから始めてみようよ。
内面から歌ってみようよ。
カッコ悪く歌ってみようよ。
そうすれば、「カバー曲」のことを「パクリ」と呼ぶ人もいなくなるのではないでしょうか。
日本を代表するシンガーソングライター、小椋桂は、かつてこんなことを言っていました。
「『最近の歌は何を言ってるのか分からない』って言う年配者がいますけどね。いや、分からないのは当然ですよ。何も言っていないのですから。」
・・・ぼくもそんな『最近の』人間にならないように、できるだけ主張を持った文章を書くように心掛けています。歌手の批判をするために、自分でも小説を書いています。文句ばかり言っても本人に実力がなければ、何の説得力もありませんからね。
・・・まだ小椋桂ほど言葉に重みがないかもしれませんけどね、ぼくの言葉に、もっと耳を傾けてくれる人がいれば、いいなぁ。
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