風船の結び玉3」別紙(超近代文学論集)



近代文学論
----若き詩人、かく詠えり----



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槇原敬之





槇原敬之、通称「マッキー」。
そう、あの麻薬所持でつかまった人である。

この「マッキー」というのは一般的な呼び名であり、決して

「まっきー」って誰?

などと言うことがないようにしておきたいものである。


彼の書く歌詞の内容は、とてもわかりやすい。
実に具体的なのだ。
それだけで一つの小説として成り立つかのようである。

主人公のキャラクター設定もしっかりとなされていて、
『遠く遠く』で見られる、
野心家の主人公が、同窓会の案内状を見て、
「大事なのは変わってくこと、そして変わらずにいること
と、考え方を変えてゆく様は、聴く者を嬉しくさせる。

マッキーの歌の中で『遠く遠く』を上位に置く人間は、
かなりの彼のファンであると思いましょう。


抽象的な単語を並べただけのくだらん歌にあふれる歌謡界で、
彼の存在は特異なものです。

ストーリー重視の飾らない歌詞は、
すべての人に彼の主張を伝えることに何の弊害も与えない。
わかりやすいんです。



でも彼については何か語りたいので、
その中でも、まぁ難解に属すると思われる
「どんなときも。」の歌詞についてうんちく垂れたいと思う。


どんなときも。

僕の背中は自分が
思うより正直かい?
誰かに聞かなきゃ
不安になってしまうよ
旅立つ僕の為に
ちかったあの夢は
古ぼけた教室の
すみにおきざりのまま

あの泥だらけのスニーカーじゃ
追い越せないのは
電車でも時間でもなく
僕かもしれないけど

※どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなモノは好き」と
言える気持ち 抱きしめてたい
どんなときも どんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること 僕は知ってるから

もしも他の誰かを
知らずに傷つけても
絶対ゆずれない
夢が僕にはあるよ
“昔は良かったね”と
いつも口にしながら
生きて行くのは
本当に嫌だから

消えたいくらい辛い気持ち
抱えていても
鏡の前 笑ってみる
まだ平気みたいだよ

どんなときも どんなときも
ビルの間きゅうくつそうに
落ちて行く夕陽に
焦る気持ち 溶かして行こう
そしていつか 誰かを愛し
その人を守れる強さを
自分の力に変えて行けるように

※Repeat



これはマッキーのデビュー曲です。
3曲目くらいです。
ややこしい書き方をしているのですが、
「僕」が夢を追いかけている
その焦燥は良く伝わります。

では要約を。

少年の頃の夢を叶える為に都会に旅立った僕は、夢が解らなくなる
。夢は変わっていない。変わったのは僕のみ。あの頃のように純粋
に夢と向き合えたら頑張れるだろう。


この詩の中には、リピート部分を除いても
7個の「僕」が出てきます。
それのほとんどが目的語として使われており、
自分で自分を観察している歌であることがわかります。

僕の背中は自分が
思うより正直かい?
誰かに聞かなきゃ
不安になってしまうよ


はじめの4行では、背中に心が表れることを気にしています。
これは単純に言えば、
背中が丸まっていませんか?
肩が落ちていませんか?
ちゅうことですね。
あとで記述されていることですが、
夢にちっとも手が届かなくて落ち込んでるわけです。

次。


旅立つ僕の為に
ちかったあの夢は
古ぼけた教室の
すみにおきざりのまま



『ちかった』の主語がありません。
当然この主語は「僕」です。
「僕」が「僕の為に」ちかったのですね。

ここで解りやすくするため、「僕」を細分化して考えましょう。
過去、学生だった時の「僕」を[ぼく]としますかね。
そして都会へと旅立った後の、今の「僕」を[ボク]とします。

そうするとつまり、
[ぼく]が[ボク]の為に夢をちかったわけです。


ここ、重要です。よく考えてみてください。



で、教室のすみに夢が置き去りだというのですから、
この「夢」というのは[ぼく]の所属でしかなく、
決して[ボク]が所持してはいないのです。

ここら辺は後で詳しく述べます。
次。


あの泥だらけのスニーカーじゃ
追い越せないのは
電車でも時間でもなく
僕かもしれないけど



また主語がない。
何が「追い越せない」のか。
「泥だらけのスニーカー」を履いているのは誰か。

その答えは、目的語を考えてみればわかる。
電車、時間、そして僕。
ここで言う「僕」は、過去から追いかけられる立場なのだから
[ボク]であることは間違いない。
ということは、主語は[ぼく]であろう。
[ぼく]が[ボク]を追い越せない、と言ってるのです。

夢というのが[ぼく]の所属であることを思い出せば、
なんとなくわかってくれるかなぁ。


主人公は、今、夢を忘れかけているのですよ。
もうそんな夢、どうでもいいや、と思ってしまいかけてるわけです。
それを筆者は、過去の、その夢見ていた場所に
夢を置き去りにしてきた、と例えてるのです。
そこには[ぼく]がいる。
[ぼく]は「夢」を持っている。
だけど[ぼく]は[ボク]のところまで追いつくことができない。
それはなぜか?

距離?
都会に出てきてしまったから、夢が見えなくなったのか?
田舎だから生じた馬鹿げた夢だったのか?
いや、違う。
たぶん違う。
距離なんて関係ない。
そんなもので夢は薄れはしない。
「夢」は電車だって追い越せるんだ。

時間?
時が流れてしまったから、夢が見えなくなったのか?
若さゆえに生じた馬鹿げた夢だったのか?
いや、違う。
たぶん違う。
時間なんて関係ない。
そんなもので夢は薄れはしない。
「夢」は時間だって追い越せるんだ。

じゃあなぜだ?
なぜ、夢と僕の間にはこんなにも距離があるんだ?

・・・僕?

あぁ、そうか、僕か。
これは[ボク]と[ぼく]の距離なんだ。
今の[ボク]と昔の[ぼく]の心の距離なんだ。

いつも心にそのまま残っているように見える「夢」。
だがそれは、物理的、時間的距離が0に感じられるがゆえに起こる錯覚であり、
実のところ[ボク]の「夢」は
あの古ぼけた教室のすみにおきざりにしているのではないか。
「夢」はスニーカーを履いたまま、
今もまだすみの方で体育座りをしているのではないか。
[ボク]は本当は、「夢」を
あの頃の[ぼく]の中に忘れているのではないか。

うーん、
つまり「夢」ってのは都会に出てくるきっかけにはなったのですが、
自身の心の中にしっかり残っているものではなくて、
心のすぐ近くに感じられる場所にあるだけであって、
それは過去であったり、遠くであったりで、
本当はもう[ボク]は忘れちゃってたわけですね。

で、忘れちゃってた原因を考えてみると、距離でも時間でもなく、
[ボク]の心にあるのかもしれないなぁ・・・、
と気付いたのです。


別の言い方をしますと、
彼は、彼の夢の記憶が古ぼけてしまっただけで、
夢自体は古ぼけてなんかいない、ということに気付いたのです。


次に行きましょう。
ここまででは自分の現状を顧みているのです。
そしてこの後から、
じゃあどうしようか、
みたいな話になってくるんですね。


どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなモノは好き」と
言える気持ち 抱きしめてたい
どんなときも どんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること 僕は知ってるから



サビの部分です。
ここでは

どんなときも どんなときも
らしく
好きなモノは好き


のように、連続して言葉が繰り返されています。
これはその悩みの本質が実は単純なものであることを強調してます。

僕=僕
好き=好き

簡単な数式です。


僕が僕らしくあるために


さて、この二つの「僕」、どちらの意味の「僕」でしょうか。


どう読み取ってもよさそうですが、
ま、
二つの意味を含んでる、と考えたほうがいいでしょうね。

つまり、
[ボク]が[ボク]らしくあるために、
そして、
[ボク]が[ぼく]らしくあるために、
好きなモノ、つまりは「夢」ですね、
それを好きと言える、
「夢」に対して誠実な気持ちを持ちたい、
そういった心の作業をして、
丸まった背中を伸ばす答えにするのだと言っております。

ようするに、
[ボク]と[ぼく]を結びつけ、
これらの心を合致させることから始めたいのですな。

泥だらけのスニーカーを履いている[ぼく]にどうにか[ボク]を追い越してもらって、
あの頃の「夢」に、あの頃のように純粋に向き合いたい。
これは、以下の歌詞に象徴されています。


もしも他の誰かを
知らずに傷つけても
絶対ゆずれない
夢が僕にはあるよ



はじめの2行が[ボク]の立場から見た「夢」、
うしろの2行が[ぼく]の立場から見た「夢」。

二つの「夢」は同じものを指すのですが、
[ボク]にとっての「夢」には
年をとっている分、いろいろ制限が付いてしまうんですね。

誰かを傷つけてはいけない。
自分のことばかり考えていてはいけない。

大人としての立場がある。
だから人は、[ボク]の中に[ぼく]を見出すことが難しくなってくるのです。

だけど、そんな保守的な考えは、後悔しか生まない。
それを彼は知っていた。
そこで主人公はどうしたかというと、


好きなモノは好きなんだ!しょうがねぇじゃん!


と、良い意味で開き直りたいと考えるんです。
誰を傷つけても、夢をかなえたい、
これは非常に子供っぽい考え方かもしれない。
でもそれは[ぼく]の立場での「夢」そのものであって、
[ボク]の原型である。

もう開き直るしかないのである。
好きなんだから、しょうがないじゃん。
夢をかなえるために、ここにいるんだ・・・。



ここから後の歌詞はわかりやすいので、特に解釈を加えません。




結局、この歌にこめられたメッセージというのは、実に簡単なものなのです。

夢というのは変わらないんだ。

距離を隔てても。

時を経ても。

[ぼく]のときも。

[ボク]のときも。


どんなときも。






詩というのは、筆者の体験からでしか生まれないものである。
マッキーは、当時どんな夢を持っていたんでしょうね。





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