風船の結び玉3」別紙(超近代文学論集)



近代文学論
----若き詩人、かく詠えり----



もどる
一青窈





ひととよう」と読む。
彼女は2003年レコ大の最優秀新人賞をはじめ、
各賞レースを総ナメにしてきた実力者であり、
みんなも名前くらいは聞いたことあるんじゃないかな。
ハダシで歌う姿が話題となっている歌手である。

一青窈の歌う歌のすべては彼女自身が作詞している。
一青窈を語るときその斬新な歌詞を無視することはできないだろう。

「ええいああ」

「てとてとしゃん」

など、既存の擬音や既存の文法に頼らない感情の連結は
感覚的に情景を植えつける。中原中也のようである。ゆやゆよん。
そしてその歌詞に対して世間は非常に高く評価しているようだ。
私の知り合いにも

「ひととよーって、性格は嫌いだけど、歌は好き。」

と言う人が多く、なんだかんだで万人に愛されている歌手である。


上で述べたように、彼女の文章は独特である。
独特、それはいわゆる
「正しい日本語」では書かれていない、
ということを意味していて、
結局は独特ゆえに非常に難解な文章になっているのだ。

とりあえず一番の有名どころであるデビュー曲、
「もらい泣き」
の歌詞を以下に書くので、何がどう難しいのかを理解してほしい。



もらい泣き

ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいああ 僕にも「もらい泣き」
やさしい・の・は 誰です

朝、から 字幕だらけのテレビに
齧り付く夜光虫。
自分の場所
探すひろいリビング
で、『ふっ』と 君がよぎる

愛をよく知る親友とか に は 話せないし、夢みがち。
段ボール の、中 ヒキコモりっきり
あのねでもね、
ただ…訊いてキイテキイテ

ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいああ 僕にも「もらい泣き」
やさしい・の・は 誰です

乙女座
言葉、にすればする程
意味がない小宇宙。
あげよう!
と、決めた絵本だって
とうに流行り廃れちゃった。

PM12:00過ぎ て、鳴らすメロディー
迎えが来ないシンデレラ。
明日 - 笑える - 始めの - 一歩
からだで おしえて 欲しい…ホシイホシイ

ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいああ 僕にも「もらい泣き」
やさしい・の・は 誰です

ええいああ ぽろぽろもらい泣き
ひとりひとりふたりぼっち
ええいああ 僕にももらい泣き
やさしいのは そう 君です

ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいああ 僕にも「もらい泣き」
やさしい・の・は 誰です

ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいあありがとう「もらい泣き」
やさしいのはそう 君です



さあ、どうだろう。この歌詞が難解だといった意味が分かっただろうか。

そうなのだ、この歌はかなり
「理解の自由度が高い」のである。

要するに説明不足なのだな。

主観的な感情のみですべてが構成されており、
状況説明がほとんどなされていない。
はっきり言ってこの歌詞だけで状況を理解しようとするのはムチャである。

しょうがないので、ここでひとつの情報を与えます。
これによってちったぁ分かり易くなるだろう↓。

一青窈が言っていたのだが、この歌は
友人からの電話でもらい泣きした思い出を、元にして作った』
ということだそうだ。
つまりストーリーのメインは電話の向こうにいる人であり、
それに対して一人称「僕」はもらい泣きしている、という歌なのだ。

それでは恒例の77字要約をば。


恋愛の夢と現実の間で苦しむ友は受話器の向こうで泣いている。彼
女は現実の愛を知りたい。何もしてあげられない僕は、友のやさし
さを知り、もらい泣きをしてしまう。


では簡単に内容を確かめてゆこう。
主な登場人物は2人。
「君」そして「僕」。
共に女性と考えてよいだろう。


朝、から 字幕だらけのテレビに
齧り付く夜光虫。
自分の場所
探すひろいリビング
で、『ふっ』と 君がよぎる



朝の四時くらい、ローカル局ではよく字幕放送が流れています。
それに齧りついている姿を想像すれば、彼女に対して

ぼんやり
無気力

といった言葉が重なるでしょう。
このテレビに齧りつく「君」と呼ばれる彼女を、
便宜上「A子さん」としておきましょう。

A子さんは脱力しているわけです。無気力です。
そして自分の部屋に『君』の幻影がよぎるわけです。
この『君』というのはA子さんの恋するところの
「うるわしの瀬の君」
であることは間違いないのだな。

しかし『君』に対する情報が全くない。
なのでこの『君』が片思いの人なのか
実際に付き合っていて、今、うまくいっていないのか、
すでに別れてしまった人なのか、
それとももっと別次元の形状を持った恋なのか、
それは特定することができない。
ただ、A子さんは恋で悩んでいることは分かるだろう。


愛をよく知る親友とか に は 話せないし、夢みがち。
段ボール の、中 ヒキコモりっきり
あのねでもね、
ただ…訊いてキイテキイテ



「愛をよく知る友」には悩みを話せないのだから、
A子さんは愛に対してシロウトなのだな。
彼女は自身の今悩んでいる独自の「愛」というものに対して
それが正しい存在なのかが分からないのだ。
間違っているかもしれない。
とんでもなく間違っているかもしれない。
だからそれを人に説明することが恥ずかしいのだ。
愛、という得体の知れないものに悩まされ、
翻弄されて、混乱して、
もう何が何だか分からない。
「愛をよく知る親友」は、何の疑いもなく一般的な愛を得て、
特殊な愛の形との自覚を持つA子さんは誰にも相談ができない。
相談する相手も無く、そして自分でその悩みを解決できないとき、
程度こそ違えど、人は皆、ヒキコモるものなのだろう。
そうしてダンボールの中、ミーミー鳴く夢見る仔猫は
「訊いてキイテキイテ・・・」
と助けを求めるのである。自分ではどうすることもできないから。

この訊いてという言葉は、もちろん
「タズネテください」
の意味である。
「具体的に、ひとつずつ私の混沌を解いていってください」
「そのために、私に質問をしてください」
の意味である。
夜光虫という生物が、外部からの刺激によって光を発する特徴を持つことを知っていれば、
この「キイテ」攻撃にA子さんの心情を読み取ることができるだろう。
結局は自分ではどうしていいのか分からないのだ。


で、ここでサビの部分。
主人公が現れて、共感して、もらい泣き。
・・・この部分は最後に述べることとして、二番を先に解説しましょう。


乙女座
言葉、にすればする程
意味がない小宇宙。
あげよう!
と、決めた絵本だって
とうに流行り廃れちゃった。

PM12:00過ぎ て、鳴らすメロディー
迎えが来ないシンデレラ。



愛。
この言葉を日常に下ろしてきたとき、
概念をそのままの大きさで表すモデルには二種類があります。

、そして、現実

夢と現実は相対するものでありながら、
どちらも「愛」と縦につながっている。
ここにA子さんの悩みがあるのです。
つまりA子さんは、愛の中に夢を見ているのですね。
乙女座、絵本、そしてシンデレラ。
ところがこれらを、小宇宙、流行り廃りなどの「現実」に落とすと、
とたんに夢は無意味で無価値なものに変わってしまうのです。

夢が無価値だと気付いたA子さんは、ついに夢の世界から抜け出そうと考えます。
「現実」の愛を知ろうと考えるのです。


明日 - 笑える - 始めの - 一歩
からだで おしえて 欲しい…ホシイホシイ



からだでおしえて欲しい。
ここでA子さんの悩みを
『恋愛に肉体関係は必要か?』
のように小さくまとめてしまってもよいのだが、
やはりここはもっと大きく、
夢と現実とのギャップ
ぐらいに概念的に考えるべきでしょう。
ここで言う「からだ」とは「こころ」の対義語であり、
愛における現実の象徴として使われているのです。


夢と現実には大きな隔たりがあり、
しかしいつかは100%現実の世界に行かなくてはならない。
それを自覚した瞬間から成長の痛みは始まるのです。
訊いて
おしえて
現実方向からの救いの手を求める悲痛な叫び。
そのような中で、何もしてあげることのできない主人公"僕"は、
ただただ涙を流すのです。


ええいああ 君から「もらい泣き」
ほろり・ほろり ふたりぼっち
ええいああ 僕にも「もらい泣き」
やさしい・の・は 誰です



受話器の向こうで泣くA子さん。そしてもらい泣き。
A子さんが悩みをうちあけているのだから、
主人公"僕"は「愛をよく知る」者ではない
だからこそA子さんに共感できるわけだ。


悩みのすべてをうちあけたA子さん。
受話器の向こう、"僕"はもらい泣きをしている。
そんな親友"僕"に対して、A子さんは言う、

「あなた・・・やさしいひとね。」

違う、それは違うよ。
優しいのは僕ではないよ。
僕はあなたのやさしさに対して涙を流したのです。
あなたがやさしいから、僕はもらい泣きしてしまうのです。
やさしいのは、君です。


とまぁ、こんな感じですかにゃ。
はじめに言った通り、理解の自由度が高い歌だから、
この解釈は一青さんの意図とは異なるかもしれないけど、
でもA子さんが愛について夢と現実の間で苦しんでいる姿はどうしても目に浮かびます。

ただこの歌はあまりにも短いスパンを切り取りすぎて、
A子さんの悩みが根本的に解決していないのである。

実はこれは現代歌謡曲の中では意外にも斬新である。
こーしろ、あーしろ、こーすればよい。
あしたがあるさ、飛び出しゃいい。
無責任に歌い手が方向を主張する歌はよくある。
ところがこの歌は、問題提起しておいて、
結局解決していない。

つまりは解決できないのだ。
簡単に解決が導き出されるような悩みは
多分「悩み」などではない。
一般的な「正解」を持たない悩みにこそ人間の本質があるのだ。
だから人間の本質を歌いたいとき、結論は明言できなくなる。
純文学と呼ばれるジャンルの小説で
キモチワルイ終わり方が多いのはこういった理由によるのであって、
結論の出ないテーマを持ってきて
「人間ってなんだろうなー」
と思わせるのが文学としての奥深さなのだ。

日本文学ではよく見かけるこの形も歌謡曲ではそうは存在せず、
その「文学としての奥深さ」に一青窈の高い評価の理由があるのだろう。

しかしながら一青窈は
A子さんの悩みに対してまったく答えを出していないわけではないのだな。

やさしいのはそう 君です

これが"僕"の出した答えになっている。
要するに

[あなたはやさしい人だから、大丈夫。]

そう訴えているのだ。

実に漠然とした答えである。
でも"僕"はその意見に自信を持っている。
理由はないけれど、きっと大丈夫。
全体的に悲しい歌でありながら
希望に満ちた歌い方をする一青を見れば、
そこにA子さんを強く信じる"僕"の心情が伝わってくるだろう。


つまり『もらい泣き』という歌は
得体の知れない、誰にも理解されない悩みを抱えるすべての人に対する応援歌なのだ。



一青窈は歌っています。聞こえますか?





『あなたなら、大丈夫。』





(2oo4.o2.18)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送